伊吹モグサを天下に知らしめん

亀屋もぐさ六代目 七兵衛氏幸。幼少の頃は増吉と称しました。天明二年(一七八二)生まれ。齢二十三才にして伊吹モグサを天下に知らしめんと商号を亀屋佐京と称しモグサの商いに邁進しました。その商いで得た金子を元手に一路単身江戸に下ります。当時、江戸への行商は親類隣人が水杯で見送る程人生を賭したものでした。七兵衛が江戸に下った治世は十一代将軍家斉公の頃にあたり、江戸は文化爛熟の頃を迎えようとしています。
江都における七兵衛は、同国の人(現東近江市五個荘町出身)である日本橋通りの白木屋(呉服屋)にその知るべを頼り、天秤棒を肩に担ぎ江戸八百八町を隈なく歩きモグサの行商に精を出します。まさに世は化政時代の幕開け、浮世絵、洒落本、黄表紙、赤本の類が乱れ飛び、蔵前には豪商札差が軒を連ねる町人文化の台頭期でもありました。七兵衛はこの時代の臭いを嗅ぎ分け、浅草は吉原で一計を企てます。

多量のもぐさを積み江戸に行商沿道もぐさを売り江都に達するの日、すでに若干の利を得たり。即ち吉原の遊里に遊ぶ。沿道を得る処の利益を散し、時々豪遊をなし妓輩を風靡せし 一日妓輩に謂って曰く 『予は近州伊吹山山麓柏原宿のもぐさやなり、その獲る所の利を以って汝等に散す。 汝等我が為に蕩すの心無き哉。』 舞輩曰く 『敢えて妾等にして為し得るのことならむ。』 之に応えんと君曰く 『良く然らば汝等に告げん、我に宿志あり。伊吹もぐさを広く世人に知らしめんとす。 汝等今より他の遊ある毎に、酒歌菅紘の間、伊吹もぐさの一事を加え歌ふ可』と。 その俗歌に曰く ♬♪ 江州柏原伊吹山のふもとの亀屋佐京の切りもぐさ ♬ -切りもぐさの唄- 妓輩欣諾す。 『飄客ある毎、必ず斬く歌うべし』と。

<以上、山根胤之氏:伊吹艾(もぐさ)史より>

この唄を吉原に来る全てのお客様に歌い聞かせてください。宴の時に語ってください。と吉原の人達に頼み、承諾してもらいます。すると、江戸中に伊吹もぐさの名前が広がっていきました。当時の吉原は町人から大名まで集う、華やかな江戸文化を象徴する街としてその成熟期を迎えています。この街で伊吹もぐさの宣伝をすれば通常以上の効果が得られると考え、誰にでも口ずさむ事の出来る簡単な唄を使ったこの妙案こそ、まさに、CMソングの先駆けといえるのではないでしょうか。

亀屋佐京商店番頭福助

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