もぐさは「散」なのか?
写真(ページ中ほど)は「(高級)小袋もぐさ」(左)と「切りもぐさ」(右)。2つの商品は共に江戸期には既に販売されている記録が残っています。
「(高級)小袋もぐさ」はもぐさを袋に入れ薄く伸ばした商品です。弊社では昔、昔その昔から「バラモグサ」と呼んでいます。一方、「切りもぐさ」はもぐさを紙に巻き400粒の粒状のもぐさに成形し、1粒を1回分のお灸として使用する商材になります。「キリモグサ」のネーミングで販売をしています。「切りもぐさ」は何処でも誰でも「キリモグサ」と呼んでいる模様です。
ここで疑問に思う事?「(高級)小袋もぐさ」を「バラモグサ」と呼んでいる私共に対し鍼灸学校様などで使うテキストには「散艾」と書かれており、「チリモグサ」「チラシモグサ」「サンモグサ」などと教えておられます。一つの商材に対し私が聞いただけでも3つもの呼称が存在しています。これは「散艾」の語句にはルビが降られておらず多様な呼び方が出来たと考えられます。
ここからは全くの私見です。何方かを責めようとか誰かを非難するつもりは毛頭御座いません。ご留意ください。
私の推測では
教科書の編纂時期(初版時)に編集者側からもぐさ屋に対して商品の呼称等に対するヒヤリングが行われもぐさ屋も回答書を提出した。その際にルビを降らず当たり前のように「散艾」や「切り艾」などと書き提出したのではないでしょうか。受け取った側もそれ程大きな迷いもなくそのまま「散艾」や「切り艾」と編集しテキストに記載した。
それでは何故弊社が「散艾」をバラモグサと二百年以上の長きに渡り読んでいるのか。この【散】という文字、「お金を散蒔く」と書くと【バラ】と読めるのではないでしょうか。これが弊社の「バラモグサ」の呼び方であり、袋に入れてある状態のもぐさを一枚一枚バラバラにして中山道柏原宿を訪れる旅人に販売したことが語源だと思われます。それでは【散】ではない状態のもぐさは古来から何と呼んでいるのか?
それは【俵(ヒョウ)】もぐさです。
【俵】という文字を見て皆様は何を頭の中で想像されますか?様々な形が思い浮かぶかとは思いますが、一俵、二俵と文字を付け加えてみると如何でしょうか?薄っすらですが米俵なんかが頭の中に浮かんできませんか。もぐさ作りとお米作りでは言葉や道具などでリンクする部分が多く見受けられます。江戸時代の農業特に稲作は江戸幕府の基幹産業であったため米作りの出来栄えに幕府財政が左右される程でした。基幹産業に先進的な技術や知識また資本が大いに活かされる事実は現代でも江戸時代でも同じであり、その技術や知識を使えとばかりに他の産業延いてはもぐさ作りにも応用されたことは至極当然のように思われます。もぐさの原料であるヨモギの多くを農家の方々が収穫されていたことも情報の共有を容易たらしめた要因であると考えます。(※注1)実際に米作り用の唐箕が開発され多くの農家で利用されたと推測される年代以降にもぐさの生産量が徐々に増大し凡そ100年後に木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の中で歌川広重が亀屋もぐさの店頭風景を描いた事は非常に興味深い事柄です。(※注2)さらに需要の増大に供給が追い付き江戸や大坂という一大消費地に米俵の荷姿でもぐさが送られていたとしても何ら不思議はありません。(※注3)つい十年ほど前、愛媛県のとある山間の町に在る家の蔵からもぐさが俵にくるまれた状態で発見され、そのもぐさの年代を推察しに来て欲しいと依頼があり現場近くへ足を運んだことが思い出されます。
甚だ僭越ですが、
弊社と同じく江戸期からもぐさの商いをされておられる日本橋小網町にある釜屋さんの状況も書き記しておきます。「おつなちらしで こころのこまの くるってつないだ
三のいと」という都都逸に「チラシモグサ」の語源を見ておられる模様です。(この都都逸の浮世絵を見るとよく分かりますよ。) 即ち釜屋さんは【散艾】を「チラシモグサ」であると考えておられます。ただ釜屋さんにも弊社とは異なる形の商材を「バラモグサ」と呼ぶ商慣習はいまだ健在で「バラモグサ」という単語も全く意味のないもぐさ屋用語では無いような気がいたします。
(※注1)米作り用唐箕が全国的に普及する年代を和漢三才図会が刊行された1712年から1720年代前半と推測し、歌川広重が亀屋もぐさの店頭風景を描いた木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の制作年代を1830年代後半(1835年-1837年)と推測しています。
(※注2)もぐさの生産量がそのピークを迎えたのがペリー来航あたりの1850年代だと記憶しています。が、如何せん不確かな記憶でもあり正確な情報をお持ちの方は是非ご教授ください。
(※注3)現在、弊社に於いてもぐさを米俵に包み出荷する作業は有りませんが、棚卸しをする際に使用する項目の一つに「俵もぐさ」という項目は存在します。