もぐさの亀屋
お灸の故郷、伊吹もぐさ亀屋佐京商店は、伊吹山の麓でお灸やもぐさを製造・販売する会社です。
創業は寛文元年(1661年)。
中山道六拾九次・六拾番目の宿場町に今も江戸期の風情を残す店構えでお客様をお待ちしています。
また木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の中で歌川広重がもぐさ屋の店頭風景を描いており、その絵の中には裃を付けて扇子を手に持ち大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿で街道を往来する旅人を見守る福助人形の様子も描き込まれています。
福助人形の起源には諸説あるものの福助人形発祥の店としても多くの方に親しまれています。
お灸の故郷
多くの作家の方が亀屋もぐさを題材に著書を出版されてています。
一部の書物をご紹介します。
お灸はその昔から我々の生活の一部として現代にも受け継がれています。
街道をゆく-近江道散歩より
駕籠舁きが二組、前後にひかえていて、もぐさを買いに行ったであろう客を待っている。
番頭には大きな福助の人形と伊吹山の模型がすえられていて、客はいずれも旅人である。
番頭が一人、小僧が一人、対応している。店舗は二つにわかれていて、むかって左が販売用の店構えでなく、七兵衛独創したところの休憩所になっている。
茶庭の待合に似た風雅な構造で、ふつううの待合よりも広い。
長い床几が三台おかれていて、むかって右の店頭の客より身分のよさそうな客が二人、たばこをのんでいる。
-司馬遼太郎/朝日新聞出版-
中仙道六十九次-はやぶさ新八御用旅より
柏原は伊吹山の麓の宿場町であった。
ここの名産は江戸でも名高い「伊吹艾」で宿場へ入ると何軒もの艾を売る店が並んでいる。
治助はここで本場の艾を買うのを楽しみにしていたので、早速、亀屋という店へ入って行った。
連子格子の二階家でどうやら二階のほうは旅籠になっているらしい。
艾の包を並べた店は広くて右側に大きな福助の人形がおかれているのは、福を招くという縁起物か。左には伊吹山をかたどった置物が飾られている。
艾売り場に並んで、左手は茶店で、こちらには金太郎の人形があって、土間には縁台や腰掛が配置され、茶菓子や酒肴などの用意があるらしい。
-平岩弓枝/講談社文庫-
亀屋もぐさの番頭 -福助さんより
もぐさ屋の亀屋には福助という正直一途の番頭がいました。
創業以来伝えられた家訓をまもり、ふだんの日は裃を着け、扇子を手ばなさず、道行くお客さんに、もぐさをすすめ、どんなにすくない商いでも感謝の心をあらわしおべっかをいわず、まごころでこたえつづけました。
耳たぶが異様に大きなこの人物のうわさは一躍上方でも有名に。
噂をみみにした伏見の人形屋が、福を招く縁起ものとして番頭福助の姿を人形にうつし瞬くうちに福助人形は大流行。商店の店先に飾られるようになっていきます。
荒俣宏氏曰く、
“(もぐさ屋)亀屋の福助を見て、ただひたすら、その大きさに感動する。…中略…
これを拝まずして福助は語れない。三大福助の第一と折り紙をつけたい。”
-荒俣宏/筑摩書房-
近江山河抄 -伊吹の荒ぶる神より
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを (藤原実方)
百人一首で有名なこの歌は、近江の伊吹山ではなく、下野の伊吹をよんだともいわれる。実景を謳ったのではないから、どこでもさし支えはないわけだが、都びとには近江の方が親しかったに違いないし、私たちにしても、伊吹といえば近江以外には考えられない。汽車が滋賀県に近づくと、一番先に現れるのがこの山で、ある時はきびしく、ある時は穏やかに、周囲を圧してそびえたつ姿は、正に神山の風格をそなえている。実際にもこの辺ではもっとも高い山で(一三七七メートル)、その連峰は湖北から美濃・越前へとつづき、南は鈴鹿山脈につらなる。そこには古くから伝わる伝説の数々が秘められ、中でも日本武尊の悲劇は、千数百年を経た今日でも、私たちの胸を打たずにはおかない。
前記のうたによまれた「さしも草」は、もぐさのことで、伊吹山で採れるよもぎ(もぐさの原料)は特別いいとされていた。下野の伊吹山も、もぐさの産地ということだが、それは近江の山の名を踏襲したのであろう。山麓の柏原には、「伊吹堂」という古い看板をかけたもぐさ屋があり、どっしりとした旧家の構えに、往年の宿場の名残を止めている。
-白洲正子/講談社文芸文庫-